あなたは物語性を纏った記号になれる。

露ができはじめるころ

白露、という言葉を知ったのは最近のことだ。1年を24等分してその分割点に当たる日の名称、二十四節気のひとつらしい。立春夏至をもっと細分化したもののようだ。春夏秋冬をさらに6つに分けた24の季節。「にじゅうしせっき」という響きが綺麗だ。

立春、雨水、啓蟄春分清明穀雨立夏、小満、芒種夏至小暑大暑立秋処暑、白露、秋分寒露霜降立冬小雪大雪、冬至小寒大寒

どれも美しい言葉だ。なんとなくだけれど朝が似合う。おそらく白露や霜降が朝露や霜に由来するからそんな認識を持ってしまうのだとは思うのだけれど、明け方のほうが季節の匂いが強く香るからだろう。例えば、春の雨上がりの朝には清明という言葉がふさわしく思う。綺麗な言葉たち。字面も意味も音の響きも、とても気持ちがいい。

大寒が最も寒いという意だったり立春が2月だったりするのは現代の季節感とは異なるのは事実だとしても、こういった言葉の端に宿っている“季節を味わう感覚”というのはとても綺麗だ。四季折々の自然や日常を堪能する感覚。これは意識していないとなかなか身につかない技量だ。

消費すべきコンテンツが飽和している日々の中で、季節の変化を楽しむことはなんだかとても贅沢で雅な行為に思える和歌を送り合っていたい時代はこんな風に季節を味わっていたのかしら。四季を愛でる国で生まれた文化だ。

かつての文化的なものは、限りなく対人的だったのかもしれない。美しい花を見たとき、写真を撮ってSNSに上げる行為の向かう先はおそらく自分だ。自己像を作り上げる行為と繋がってしまう。美しい花を見て歌にして愛しい人に送るのは、自分の心がどういうことで動くかを示す行為ではなくて、素直に「美しい花を見て貴方を思い出しました。貴方にも見せてあげたい」という伝達の行為だ。その時に向かう先は、相手。誰かを想って生まれる言葉。

届ける相手のいない、まるで瓶を海に流すような伝達の行為。今の私たちがしていることはそういう類いの行為な気がする。
自己像をつくろうとすればするほど、身体がなくなっていく。身体のないイメージだけの誰か。