読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あなたは物語性を纏った記号になれる。

無機質な感情

秋刀魚の季節。会社の近くの小料理屋さんで秋刀魚定食が始まる季節。
「旬のものを食べなきゃね」そんな科白とともに秋刀魚が口に運ばれていく。
旬のもの、季節のもの、その類いを耳にする時、それらを極端に避けていた時期のことを思い出す。

私の実家は港がある街の兼業農家だ。
スーパーに並ぶ魚は季節ものが当たり前で、野菜は自分の家で採れるのだから旬でないものを探す方が難しい、そういう環境で育った。
春キャベツだから水分が多いね、新タマネギは甘いね、梨の旬は豊水だろうけど私は幸水が好きだな、干し柿の準備しなくちゃね、そろそろしらすだね、この時期の大根は苦手だな…。
季節と食材が結びつかないことの方が希有な、そんな場所で育った。

テカテカした薄いビニールに包まれた総菜パンの類いは、別世界のようだった。
そういうものを買い食いして歩く友人たちをみて、なんて大人なんだろうとさえ思っていた。
天ぷらは外で食べるものと認識している人達と同じくらい、天ぷらは家で揚げるものだと思っていた。
カタカナの並ばない食卓でゴマ和えのゴマをすり鉢でするのが自分の役目、そんな子供時代。

コンビニエンスストアで売っているお弁当を休日の部活帰りに食べた時は、ちょっと大人になった気がした。当然のような正当性と優しさが苦しい時期だったのかなと、今は思う。

旬のものを旬の時に食べる。その難しさを知った今、その貴重性と有益性を理解できる今、大切なことだなと思うし、なるべく旬を意識したい。

けれど、10代の私には正当性の暴力でしかなかったのだ。
あのペラペラのビニールに包まれた何処産かも分からない野菜が使われた総菜パン。嘘みたいな例えだけれど、一筋の希望に見えたのかもしれない。正しさから逸脱する僅かな手段。あまりに大袈裟な気がするけれど、自分と異なる世界を繋ぐ糸みたいに思っていたのかもしれない。

旬の時に旬のものを食べる。そういう正しさを否定しない。けれど、その正しさが暴力になる場所も同時に存在している。そのことはなるべく覚えていたい。