あなたは物語性を纏った記号になれる。

重さを必要としない引力

雪が降った。11月に雪が降るというのは、都内では54年ぶりのことらしい。

 

私の生まれ育った街は、滅多に雪が降らない地域で、雪が降った日に学校に遅刻しても「しょうがないよね」で済まされていたような場所だ。交通機関が破綻するという理由ではない。誰もが珍しい雪を愛でてしまって、まともに登校できないからだ。冬期のコートの着用に申請が必要な街だった。

地元を離れるまで、雪が積もるのは雪国でしか起きないことだと思っていたし、年内に雪が降るなんてことは、雪と共に生きている人達の日常以外にありえないと思っていたのだ。

 

それが、今日、年末の気配もしない11月に雪が降った。

 

はらはらと舞い散る雪を見ていると、まるで自分が浮いていくような感覚に襲われる。空から降ってくるものの速度を覆して降る雪はただただ綺麗で経験則で培った感覚を奪ってしまう。

見ているだけで、自分の身体の感覚さえ奪われる。けれど目を背けることができない。目が離せないのは、物珍しいせいだからだろうか。圧倒的な引力からどうしても逃れられない。

そういうものは、きっと雪だけではないのだろう。圧倒的な引力に惹き付けられながら、私は今日も生きている。

露ができはじめるころ

白露、という言葉を知ったのは最近のことだ。1年を24等分してその分割点に当たる日の名称、二十四節気のひとつらしい。立春夏至をもっと細分化したもののようだ。春夏秋冬をさらに6つに分けた24の季節。「にじゅうしせっき」という響きが綺麗だ。

立春、雨水、啓蟄春分清明穀雨立夏、小満、芒種夏至小暑大暑立秋処暑、白露、秋分寒露霜降立冬小雪大雪、冬至小寒大寒

どれも美しい言葉だ。なんとなくだけれど朝が似合う。おそらく白露や霜降が朝露や霜に由来するからそんな認識を持ってしまうのだとは思うのだけれど、明け方のほうが季節の匂いが強く香るからだろう。例えば、春の雨上がりの朝には清明という言葉がふさわしく思う。綺麗な言葉たち。字面も意味も音の響きも、とても気持ちがいい。

大寒が最も寒いという意だったり立春が2月だったりするのは現代の季節感とは異なるのは事実だとしても、こういった言葉の端に宿っている“季節を味わう感覚”というのはとても綺麗だ。四季折々の自然や日常を堪能する感覚。これは意識していないとなかなか身につかない技量だ。

消費すべきコンテンツが飽和している日々の中で、季節の変化を楽しむことはなんだかとても贅沢で雅な行為に思える和歌を送り合っていたい時代はこんな風に季節を味わっていたのかしら。四季を愛でる国で生まれた文化だ。

かつての文化的なものは、限りなく対人的だったのかもしれない。美しい花を見たとき、写真を撮ってSNSに上げる行為の向かう先はおそらく自分だ。自己像を作り上げる行為と繋がってしまう。美しい花を見て歌にして愛しい人に送るのは、自分の心がどういうことで動くかを示す行為ではなくて、素直に「美しい花を見て貴方を思い出しました。貴方にも見せてあげたい」という伝達の行為だ。その時に向かう先は、相手。誰かを想って生まれる言葉。

届ける相手のいない、まるで瓶を海に流すような伝達の行為。今の私たちがしていることはそういう類いの行為な気がする。
自己像をつくろうとすればするほど、身体がなくなっていく。身体のないイメージだけの誰か。

真夜中の水中遊泳

秋の朝は肌寒くて、頭を少し冴えさせてくれる。どの季節だって早朝が好きだ。早起きした日でも夜更かしした日でも。
真夜中、きっとほとんどの人が眠っている時間、その時間に労働をしていた時期があった。その場所は東京タワーのそばの9階建てのビルの最上階で、なぜか他の階は普通なのにそのフロアだけが全面ガラス張りだった
今日みたいな台風の日は、そのフロアで見た台風明けの夜明けを思い出す。
夜が更ける頃は暴風雨でガラスを叩き付ける雨粒に囲まれて、水中にいるみたいだった。
台風が去って夜が明ける時、空気全体は藍色のまま光の筋が雲間から現れて、絵画みたいだなと思ったのを覚えている。

みんなが眠っている時間。一部の人しか出逢えない美しい光景。

出逢うことは当然ながら個別の体験なのだから、特定の誰かしか体験できない出来事だ。けれどそれを時間で括ってしまえばその希少性は更に増してゆく。希少というだけで少し特別な色気を帯びる気がする。そうやって日々の出来事を彩る。それはとても楽しい遊びだ。
 
 

狐の嫁入り

朝、天気雨が降った。
晴れているのに雨が降る。狐の嫁入りだ。

なんとなく、狐の嫁入りは秋だと思っている。恐らく秋が一番似合うからだ。

狐の嫁入り」という言葉で立ち上るイメージはいつも同じ。
江戸か室町か、文化的に成熟しているだろう時代、少し身分のいい大名あたりに化けた狐が白無垢を着て嫁いで行く。その行列の様子。
そして恐らく季節は秋。そう、今日みたいな。

この時期の空気は金木犀の香に満ちていて、歩いているだけで幸せな気分になる。狐ならばこの季節を狙うのでしょう。
甘ったるいのにどこか気品を残した香が充満するなか、秋晴れの陽射しが雨粒に反射して黄金色に輝く。美しすぎて嘘くさくて狐につままれたかと思う。だから、きっと秋なのだ。
桃源郷は恐らく春。色も淡い桃色、そんな極楽浄土。満ちる香も春らしいあの甘い香。
一方で黄金色の世界は蜃気楼に近い極楽。甘ったるいのにどこか切ない金木犀の香が似合う。そして、化かされている感覚がとても合う。

狐が似合うのは秋。狐というよりお稲荷様だろうか。お稲荷様は秋が似合う。鳥居が朱色なのも関係しているのだろう。

朱色が似合うのは秋でしょう?
かつて高貴だとされた紫や、日本独自と言われる藍色よりも、朱色にこの国の色を感じてしまう。それは鳥居の色だからなのかしら。

朱色、でなくとも例えば藍色のような、一般的な色の名前で呼んでしまうことだって可能なのに固有の名前を持った色。私はそれらにとても経緯を払う。日本では虹が7色であることを誇りに思う。

大切なのは、結果でも実績でもなくて、そこに降る雨の色だ。

無機質な感情

秋刀魚の季節。会社の近くの小料理屋さんで秋刀魚定食が始まる季節。
「旬のものを食べなきゃね」そんな科白とともに秋刀魚が口に運ばれていく。
旬のもの、季節のもの、その類いを耳にする時、それらを極端に避けていた時期のことを思い出す。

私の実家は港がある街の兼業農家だ。
スーパーに並ぶ魚は季節ものが当たり前で、野菜は自分の家で採れるのだから旬でないものを探す方が難しい、そういう環境で育った。
春キャベツだから水分が多いね、新タマネギは甘いね、梨の旬は豊水だろうけど私は幸水が好きだな、干し柿の準備しなくちゃね、そろそろしらすだね、この時期の大根は苦手だな…。
季節と食材が結びつかないことの方が希有な、そんな場所で育った。

テカテカした薄いビニールに包まれた総菜パンの類いは、別世界のようだった。
そういうものを買い食いして歩く友人たちをみて、なんて大人なんだろうとさえ思っていた。
天ぷらは外で食べるものと認識している人達と同じくらい、天ぷらは家で揚げるものだと思っていた。
カタカナの並ばない食卓でゴマ和えのゴマをすり鉢でするのが自分の役目、そんな子供時代。

コンビニエンスストアで売っているお弁当を休日の部活帰りに食べた時は、ちょっと大人になった気がした。当然のような正当性と優しさが苦しい時期だったのかなと、今は思う。

旬のものを旬の時に食べる。その難しさを知った今、その貴重性と有益性を理解できる今、大切なことだなと思うし、なるべく旬を意識したい。

けれど、10代の私には正当性の暴力でしかなかったのだ。
あのペラペラのビニールに包まれた何処産かも分からない野菜が使われた総菜パン。嘘みたいな例えだけれど、一筋の希望に見えたのかもしれない。正しさから逸脱する僅かな手段。あまりに大袈裟な気がするけれど、自分と異なる世界を繋ぐ糸みたいに思っていたのかもしれない。

旬の時に旬のものを食べる。そういう正しさを否定しない。けれど、その正しさが暴力になる場所も同時に存在している。そのことはなるべく覚えていたい。

文字に起こして

「文字に起こして自分を起こそう」
とある人がそう綴っていたのを目にして、
このところの私は悪い水が溜まっているような淀み方をしていたなと気付いた。

外に出ない言葉が身体の中に留まって、どこへも行けずに薄らと汚れていく。そんな感覚が続いていた。

少しずつでも、何かしら綴ったら流れ出すかしら。

そんな思いつきで、なるべく言葉を綴ってみようと決めたのが今朝の5時。
このところ変に早起きで、ベットの中で思考をあれこれと巡らせている。

今年の夏は何をしようかと呟いていたはずが、気付くと十五夜も終わって秋も深まっている。月見草が綺麗だ。
日々何かを考えているはずなのに、答えは出ないまま、何にも応えられないまま、季節だけが足早に過ぎて行く。
陽射しの強い間も沢山の人と逢って少なくない時間を共有して、それなりに騒がしい日々を送っていた感触はあるのだけど
記憶のほとんどが指の間からこぼれ落ちる砂みたいにさらさらと流れて、小説でも読んでいる気分だ。

それでも断片的な記憶はどれも優しい光を放っているのがわかる。いい夏だったんだ、きっと。

体験や思い出は、自分で意識している以上に“感触”として残る。
曖昧だけれど楽しかったことだけは覚えていたり、詳細は忘れてしまったけれどとても悲しいと感じたことだけを覚えていたりする。
悲しかった感触や傷ついた痛みは不必要に覚えている必要も無いけれど、ときにふと思い出して
例えば雨上がりの金木犀の香りとともに蘇ったりする。その苦い感触に身体がまだ馴染まない間はほおっておく。
なんとなく慈しめる時が来たら、愛でてあげる。苦みも旨味のひとつだというのが、歳を重ねて気づいたことのひとつだ。